2025/03/10
ダ・ヴィンチ(da Vinci Surgical System)は優れたロボット支援手術を可能にしてくれたが、実は術者には触覚がフィードバックされない。触覚にもいろいろあるが、手術において特に安全面で必要なのは、力覚であろう。繊細な組織を引っ張ったり、把持したりする。あるいは糸を結ぶ時の強度などを感じる力覚がないと、いろいろとトラブルの原因になるのではないか。ダ・ヴィンチの唯一の欠点と言われている。新たに手術支援ロボットを開発中の企業では、いかにして力覚を付加させるかということが優先課題になっているようだが、私は無駄な努力のような気がする。
確かに、最初は触覚がなく、こわごわ手術しなければならないが、徐々に視覚が触覚の代用をしてくれ、そのうち、あたかも触覚があると思えるようになるから不思議である。さらに視野の範囲内であれば、触覚がないとは思えないという確信に変わりうる。視覚情報を手掛かりに、触覚を得るのである。適切な喩えかどうかはわからないが、『冨嶽三十六景』の「駿州江尻」で、葛飾北斎が見えない風の強さや方向を、舞い上がる紙切れや木々の傾きなどで見事に表現しているようなものだ。
われわれの記憶にはいろいろな種類があるが、ダ・ヴィンチによって、視覚からモノの触感や質感がわかる能力が存在することが発見できたのだ。おそらく小さい時から、モノを見て、それを触ってきた記憶の莫大な積み重ねによるものであろうが、大人になってからもこの能力は備わっているということだ。そしてこの経験は容易に長期記憶に移行する。
夏目漱石『夢十夜』の第六夜をご存知だろうか。運慶が護国寺の山門で仁王を彫っていると聞いて行ってみると、大勢の見物人がいた。一人の見物人が「あの鑿(のみ)と槌(つち)の使い方を見たまえ。大自在の妙境に達している」と言う通り、迷いなく一心に彫る姿に、思わず「よくああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻ができるものだな」とつぶやくと、先ほどの見物人が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と言った。彫刻とはそんなものかと思って自宅に戻り、積んであった薪を片っ端から彫ってみたが、どれにも仁王は埋まっていなかった、という話である1)。
さすが漱石である。名人芸が直感であることを見事に見抜いている。ちなみに、この運慶の話は、ルネサンスのダ・ヴィンチではなく、ミケランジェロが「大理石の塊の内部に、聖母は隠されている。私はそれを彫り出すだけだ」と言った逸話に触発されて、創作されたそうだ。そしてミケランジェロは、それを実現するには「叡智に導かれた手」が不可欠だとも言ったらしい。
さて、私は五十の手習いで、ダ・ヴィンチ手術を始めた。やはり皆さんがおっしゃるように、一番の難関は膀胱と前立腺の境目の離断である。ここがスムーズに思い描いたようにいけば、あとは順調にいくことが多い。先に述べたが、ダ・ヴィンチ手術には触覚(力覚)がないので、ここでドツボにはまって迷子になると、なかなか思い切って進めなくなる。ところがエキスパートの手術ビデオを見てみると、無造作にハサミを動かしているように見えるのに、きれいに境界で離断している。まさに「大自在の妙境に達している」のである。触覚的な手掛かりのない(実際、膀胱も前立腺もはじめは同じように柔らかく感じる)ダ・ヴィンチの手術では、初心者にとって、これがなかなか至難の業である。しかしながら、経験を積むにつれ、今まで開放手術では触覚で区別できた違いを、視覚で区別できるようになる。組織への張力や牽引の掛け具合を変えながら、組織の伸び具合や裂け具合、あるいは形の変化を見ることで、不思議なことに視覚から触覚がまるで生えてくるような感覚を得るのである。
ただし、とても順調に終わったときでも、今までの開放手術の達成感と異なり、文字通り、「手応えがない」「手掛かりがない」と感じるのは触覚の欠如だけでなく、まだまだ未熟なせいであろうか。早く、「叡智に導かれた手」を手に入れたいと夢見ている毎日であった。
(本連載は医学書院のWebサイト『Medical Mashup』より許諾を得て転載しています)
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