2024/11/18
意識の定義はまだ定まっていない。私は、意識とは「自己が主観的に外界や内面(記憶)を知覚または認知でき、かつ判断できる状態で脳の活動によって生じる」と定義したい。
われわれの意識は、外界からの感覚や、内部の記憶とのやりとりで立ち上がる。当然、外からの感覚は、自らの感覚器を通して自分の脳内で知覚したものであるし、内部の記憶はすべて自分の記憶であることは自明である。そしてそれを材料に湧き上がる感情も、思考や判断もすべて主観が伴う。自分のモノでないという意識があるであろうか? 確かに、睡眠中やボーッとしているときや、ヨガや瞑想で無の心境に至っているならば、自分の意識というモノはないように思えるが、これは意識のレベルの問題ではないか。
皆さんも気がついているかもしれないが、意識は注意力や集中力とも関係する。意識は、身体中のさまざまな領域から送られてくる無数の情報がせめぎ合い、本来、脳は常にはち切れんばかりの状態にあるはずであるが、脳の中心部にある視床(すべての情報の中継点)という部位で、その時何に注意しているか、何に集中しているかで、必要な情報のみがふるいにかけられて統合することによって成り立つのである1)。
サッカーでシュートコースが見えた瞬間、ストライカーの耳は観客の大声援を静寂化し、そのコースに蹴り込むことに集中するようなゾーンに入る。自分のシュート以外の感覚や情報はすべて、シャットアウトされている。意識の濃度が高密度に凝縮する。一方、日曜日の昼下がり、ボーッと庭を眺めているとき、意識は散漫として拡散している。意識の密度は薄い。このように、確かに意識は集中や注意と関係する。
ダ・ヴィンチ(da Vinci Surgical System)で手術をしているときは、過剰な視覚情報から瞬時に必要な情報を選択し、不必要な情報を瞬時に切り捨てられるように術野に集中しているし、どこを切っていくか、どこを切ってはいけないか注意をはらっている。肉眼では見えない部位も拡大視野で鮮明に見え、組織の剥離面も何層にも識別可能である。さらに、かような視覚情報から、触覚までも推測できるように意識は集中している。すなわち、集中力によって種々雑多で莫大な生体情報を取捨選択して、目の前のやるべきことに意識を集約するのである。ところが最初は意識して集中し始めたのに、いつのまにかその作業に没入していることがある。我を忘れて没入してしまうのである。自意識が外れて無意識の領域で作業するという状態である。いわゆるゾーンに入るということか。
ダ・ヴィンチの欠点は触覚(特に力覚)がないことと言われていて、この分野に新規参入する開発企業は、手術支援ロボットに触覚を付加させることが必須の課題となっている。個人的な見解を言わせてもらえれば、高度な視覚機能が付随した手術支援ロボットに、触覚(力覚)は不要である。むしろ視覚と触覚の情報過多で混乱が生じる危険性がある。また繊細な触覚が付随すると、硬い組織に針を正確に抜き差しする場合、組織に負けて、思い描いたように針を通せないような予感がする。
ヒトにおいては、モノの材質や質感に関しては脳内で視覚情報と触覚の情報処理はかなりの部分がオーバーラップしているのではないか?
1)アンデシュ・ハンセン(著),御舩由美子(訳):運動脳.p336,サンマーク出版,2022.
(本連載は医学書院のWebサイト『Medical Mashup』より許諾を得て転載しています)
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