2025/07/07
風景やみんなといっしょに せはしくせはしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける・・・
ロボット支援手術を脳科学の観点から分析するために、私は現代の脳科学を楽しみながら学んでみた。「なぜヒトの脳に意識や心が宿るのか」を知りたくて脳科学者になる人も多い。また、他分野からヒトの脳の仕組みに興味をもち、脳科学に進む人もいる。さらに、機械や人工知能(AI)に意識を宿らせるには何が必要かを考えている研究者もいる。
近年、脳科学が進歩している背景には、脳活動を外側から観測する技術(fMRIなど)の発展や、記憶メカニズムの解明などの科学的・技術的要因が大きい。しかし、これは私の独断ではあるが、人類史において「人の不安や苦痛が渇愛から生じる」という自然の法則を悟ったブッダを、世界初の脳科学者として推薦したい1)。そして日本においては、心や意識への深い洞察をもっていた宮沢賢治を、最初の脳科学者として挙げたい。
宮沢賢治は『春と修羅』の「序」で、次のように綴っている2)。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失われ)
賢治の天才性は、この「序」において、人間の心や意識の本質を見事に言い当てているところにある。冒頭で「私は現象である」と述べ、自分とは「脳内で起こる実体のない現象にすぎない」と言っているのである。
彼は、心や意識の成り立ちを直感的に描写していた。私は、賢治の研究者たちが、この難解な「序」をどのように解釈しているのか知らないし、当時、神経伝達が電気現象だと知られていたかどうかも定かでない。しかし、「心や意識は電気現象である」と述べた彼の慧眼には驚かされる。ここで注目すべき言葉は「仮定された」と「因果」である。私としては、意識と心は微妙に異なるものと考えているが、「心は仮定されたものである」という賢治の定義には同意する。
自分にも他人にも、動物や虫、石ころにすら心があると仮定すれば、心は存在する。心は「風景やみんなといっしょにせはしくせはしく明滅する」――つまり因果関係のなかにある。だからこそ、心は仮定の産物なのである。私たちが「心がある」と仮定するからこそ、「心は何か」知りたくなる。「心はどう生まれるのか」「脳のどの機能が関与するのか」探りたくなる。もし、心がないと仮定していれば、単に脳の機能を客観的・科学的に還元化するのが脳科学ということになる。
このコラムの結論は「心は仮定である」である。「ある」と仮定すれば存在し、「ない」と仮定すれば存在しない。賢治はこの点をすでに見抜いていたのではないか。心が「ある」と信じようと、「ない」と信じようと、それぞれが正しいと言っているのである。賢治の序文は、むしろ意識の成立について深い洞察であったと考えられる。
1)ユヴァル・ノア・ハラリ(著),柴田裕之(訳):サピエンス全史.河出書房新社,2016.
2)宮沢賢治:春と修羅.宮沢賢治全集1,筑摩書房,1986.
(本連載は医学書院のWebサイト『Medical Mashup』より許諾を得て転載しています)
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