2025/01/27
直感が基底核による非陳述記憶であるのに対して、ひらめくこと、あるいはひらめいた時には、はたしてどのようなことが脳内で起こっているのだろうか? 「ひらめいたことがないから、わからない」という人もいるかもしれない。天才がひらめいて、新しい法則を発見したり、世界観を変えるような革新的な理論を打ち立てたりすることと比べると、微々たるものかもしれないが、凡人でもひらめくことはたまにはある。「ひらめきは思いついた後に、その理由を言語化できる」ことから、ひらめきは陳述記憶から生まれるのではないか?
私はだらしがないので、鍵やスマホをどこかに置き忘れることがある。記憶をたどって簡単に見つかった時は、それほど「ひらめき感」はない。また、この連載のようなコラムを書いている時に、参考にしようとした本が、“積ん読”(ツンドク)の山の中から、どうしても見つからない。「確かこの部屋の、この山の中にあったはずなのに…」と、他の山もシラミつぶしに探しても見つからない。その本をいつ頃読んだか、記憶を何度も何度もたどる。やはり、この山の中になければおかしいのにと思いながらも、またそのうち出てくるだろうと、シブシブ諦める。ところがある日、突然、そういえば1カ月前の出張の際に、列車の中で読もうと思って(実際は居眠りして読まなかった)、出張用のバッグに詰めたことを思い出した。さっそくバッグを開けてみると、ありました。この時の「ひらめき感」はハンパなものではない。そして私は、本当に何かをひらめいた時と、なくしたモノの在りかを思い出した時の感覚に類似性があることを「ひらめいた」のである。
われわれは何かをひらめく前に、そのことについて周辺の記憶を何度も何度もたどり、最良の解決策はないか? 本当の回答は何か? 繰り返し考える。見方を変えたり、別の資料を調べたりして、さらに思考を繰り返すが、回答は見つからない。ところが、ある時、おそらくそれらの記憶が再編され、解体され、再結合し、「間違いない!」という回答や解決策をひらめくのである。このひらめきを生み出した記憶の一群は何度も何度もたどったものである。したがって、このひらめきの「アイディア」の正しさは陳述可能なのである。まさに、「幸運は準備した心に訪れる(パスツール)」のである。そしてひらめきは、無からは生じないことがわかる。忘れていたものを思い出した瞬間に新たな価値が与えられた場合、それをひらめきというのであろう。また、本来のさがしものではなく、別の発見をするというセレンディピティという現象も似たようなメカニズムであろう。こちらも無意識の準備した心に訪れるのである。
それでは手術において、ひらめきの要素は必要であろうか? 結論から言えば、ほぼ必要ない。ほとんどの手術では、やるべきことは事前にほぼ決まっているからだ。開放手術の長い歴史の中で、また内視鏡の手術であっても、疾患や外傷、がんの手術は定型的なものとなっている。マイナーチェンジは日常茶飯事で、開放手術が内視鏡手術でできるのが最近の傾向だが、やること自体はほぼ同じである。
手術は、がんなどができた臓器を取り出す摘出術と、摘出した後や外傷・疾患によって機能不全になった部位を作り直す再建術の2つに大きく分けられるが、再建術の中には、外科医のひらめきにより考案されたと思われる術式もたくさんある。よくよく考えれば、外科学の黎明期においてはどんな手術も初めてなので、手術前に病態をよく勘案して、どんな手術をすべきか熟考したことだろう。
腸や尿管・尿道など、何らかの通り道になっている臓器は、一部を摘出したらつなぎ合わせなければならないし、それは当然誰もがやることである。ところが、尿管が長く欠損してしまい膀胱まで届かない場合に、膀胱の一部でチューブを形成してそこに繋ぎ合わせたり、虫垂や小腸を尿管の代わりに利用したりするなど、多少ひらめきが関与したであろう術式もある。あるいは膀胱がんで膀胱を摘出した後、小腸を一度切り開いて、袋状に縫い直して膀胱の代わりにしたり、また膀胱内のおしっこは尿道括約筋という筋肉のおかげで漏れない(失禁しない)ようになっているが、その仕組みを虫垂や小腸を幾何学的に形成して弁を作って代用したりするというアイディアが一時期たくさん報告された時代もあった。ただし、ほとんどの場合、こうしたアイディアは術中に急に思いついたものではなく、困った患者さんを前にして、手術前に入念にどのような方法が最適かを検討した結果である。
このように、昔からあまたのアイデアが生まれては流行り、また廃れていったので、もし手術前に自分が新しい方法をひらめいて、それがうまくいったとしても、実はそれ以前に古い手術のテキストや文献で一度は見たことがあった場合が多い。実際、自分のオリジナルだと思っても、よくよく調べてみると、かなり昔に見たことがあった、あるいはそれをちょこっと変えてみただけだったいうことがほとんどだ。やはり手術におけるひらめきは、無意識に記憶されたものを思い出したに過ぎない。つまりは温故知新である。
(本連載は医学書院のWebサイト『Medical Mashup』より許諾を得て転載しています)
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