2025/04/21
われわれのほとんどの活動は記憶に還元されると言って過言ではなかろう。あるいは記憶から生成されると言えるかもしれない。意識は記憶で立ち上がるし、「自分である」という認識も記憶によるのであろう。もしわれわれの脳から全ての記憶が消失すれば、何もわからなくなるし、何もできなくなる。自分であることもわからない。体を動かすことも不自由になる。認知症の恐怖はそこにある。ヒトの脳機能で最も重要で大切なものは記憶であろう。あるいは記憶できる仕組みである。
ダ・ヴィンチ(da Vinci Surgical System)の手術も、外科医の莫大な記憶の蓄積があって初めて可能となる。まず手術の手順や外科解剖、あるいは視野の展開は「意味記憶」あるいは「知識記憶」で、学習によって記憶されたものである。毎日のように同じ手術を繰り返していれば忘れることはないが、たまにしかしない手術であれば、手術前に手術書やビデオなどで予習して、思い出すくらいの準備は必要であろう。ダ・ヴィンチでの鉗子やハサミの操作、あるいは内視鏡のズーム機能の操作は、シミュレーターでの練習も含め、最初は意識しながら動かすが、慣れてくると「手続き記憶」あるいは「作業記憶」となり、いわゆる「体で覚えた記憶」になるので、無意識かつ自由自在に操作できるようになる。ダ・ヴィンチではこれらの操作が比較的直感的にできるようになっているので、体に染み込むまでの時間が短いのではないかと思う。手術が順調に進行している時は、おそらく「経験記憶」や「エピソード記憶」は無関係であるが、重大な局面や困難な局面に遭遇した場合は、過去の苦い経験や成功したエピソードを思い浮かべて、失敗を未然に防いでくれている可能性がある。このように、手術を完遂するためには、術者の莫大な、そしてあらゆる種類の記憶が動員されるのである。
さて、私の提唱する「質感の記憶」であるが、これはダ・ヴィンチの手術においてきわめて重要である。われわれは見ただけで、物質の触感や硬さ、柔らかさをほぼ間違えずに予測できる。例えば、誰かが着ているセーターを見ただけで、触ればどんな感触か、実際に触らずに感じることが可能である。もしそれをつまんで引っ張ってみたらどうなるかも、見ただけで予測できる。この視覚による「質感の記憶」が、触覚のないダ・ヴィンチの手術では役に立つのである。ダ・ヴィンチでの手術中、不思議なことに、私の指先にはないはずの触覚があると確信している。この触覚は私の記憶から生まれているのである。
ヒトの脳のインプットとアウトプットにはあいまいなところがある。昔(私が医学生の頃)の生理学の教科書には、「刺激が感覚ニューロンから脳にインプットされると、脳から運動ニューロンを伝わって、骨格筋(随意筋)の運動に変換される」と単純に記載されていた(最後に運動ニューロンが力こぶに接続しているイラスト)。 つまり、アウトプットは骨格筋の運動のみであるということだ。一方、インプット、すなわち感覚系の入力は視覚や聴覚、触覚、嗅覚、味覚、さらには深部感覚と、アウトプットの貧弱さに対して、実に豊富である。これらのインプットから、われわれは外界や現実を把握するわけだが(知覚)、本当にアウトプットは骨格筋による身体運動や身体反応のみなのだろうか?
車を運転していて、わきから猫が飛び出してくる。このときブレーキをかけたり、ハンドルを切ったりするために骨格筋を動かせば、明白なアウトプットと言える。しかし、まだ猫との距離があった場合に「これならぶつからないだろう」と判断すること、見極めることも実は脳内にとどまるアウトプットではないか。結果、骨格筋を動かさない、すなわち身体動作を抑制することもアウトプットである。
寝る前に明かりを消して、テレビを消して、外界のインプットのほとんどを遮断する。そして今日起こったイヤな出来事や楽しかった出来事の記憶にアクセスした場合、それはインプットなのだろうか? それともアウトプットなのだろうか? 記憶へのアクセスは知覚を伴うので、インプット。さらに感情が惹起されればアウトプットではないか。外部入力(インプット)に骨格筋では反応しない出力(アウトプット)や、脳内のみに留まるインプットとアウトプットが交錯している。
脳内では、外界の感覚を伴わないインプットや身体表現を伴わないアウトプットが頻繁かつ自動的に起こっている。その区別はあいまいであるが、中心にあるのは記憶である。きわめつけは、睡眠中に見る夢である。夢の中では勝手にインプットとアウトプットが生成されているように思えるが、みなさんはどう思われるだろうか。
われわれは赤ん坊の時から、莫大なインプットの洪水を浴びながら育つ。 この世の構造を視覚、触覚、聴覚や自分の深部感覚を駆使して学ぶ。同じインプットが繰り返し脳内に届けば、必ずしも目に見えるアウトプットを生み出さなくても、それはこの世の構造を見極めるための記憶として残るであろう。そしてインプットは意識できなくても、アウトプットを繰り返すことによって、歩けるようになったり、泳げるようになったり、自転車に乗れるようになったり、その道の達人や名人になることもできるのである。後者の運動系の非陳述記憶は一般的によく知られている記憶であるが、前者の感覚系の記憶も、実は非陳述記憶と言ってよい。このように、インプットは主として感覚系の非陳述記憶を、アウトプットを駆使することは運動系の非陳述記憶の形成に深く関わっているのではないか。
そして感覚系にしろ、運動系にしろ、脳内にプログラムされた非陳述性の記憶こそが、われわれの無意識の経験や訓練によって形成されたインプットとアウトプットの結果である。すなわちインプットとアウトプットは、記憶を形成するためにある。
(本連載は医学書院のWebサイト『Medical Mashup』より許諾を得て転載しています)
なにをお探しですか?