2025/07/14
わたしはダリじゃ? わたしにはクセはありません。わたしの大脳の働きにクセがあるのかも?
ある1つの技能を覚え、それが記憶される場合、新しいニューラルネットワークが脳内に完備(形成)されることが予想される。私のイメージは以下の通りだ。
本連載の第9回で臨界期について述べたが、幼少期や学習初期には神経接続が過剰に形成される。その後、使われない回路は排除され、使われる経路だけが強化される。技能の習得もこのプロセスと同様に、運動学習初期には多くの脳領域が活性化し、過剰なコントロールを試みる。習熟すると必要最小限の回路のみが効率的に活動し、動きも自動化されてくるのではないか(大脳皮質や基底核)。
そこで重要なのは、試行錯誤を繰り返すことである。試行錯誤や失敗なしに、効率的なネットワークの完成はありえない。ヒトの脳は、まるで配線工事中の電気屋さんのようなもので、失敗するたびに「この回路じゃダメだ」「次はこっち経由で行こう」と、配線をやり直す。つまり試行錯誤とは、脳内ネットワークの“再編成と簡略化”なのだ。実際、自転車に乗れるようになった時のことを思い出すと、最初は余分な力や動きが多すぎてうまく乗れないし、転ばないようにバランスを取ろうと、左右にどうしても力が入るであろう。ヨロヨロする自転車を制御しようと余計なぎこちない動きが増える。その力が余分な神経回路なのであろう。乗れるようになれば、意識しなくてもバランスは取れているのである。このようにスムーズにバランスが取れるようになるのと、ニューラルネットワークが単純化・効率化するのはよく似ている。
ところが、試行錯誤を飛ばして“これでなんとかなるはず”と勝手に配線を固定してしまうとどうなるか。あるいは試行錯誤が怖くて怠るとどうなるか。変なクセができて、その後どんなに改変を試みても、上達を阻むようになる。クセのあるニューラルネットワークが完成してしまうからであろう。本当であれば、早い時期に自分かコーチが気がつかないと治すのが難しくなるが、どうしても治したければ、最初から試行錯誤をやり直すしかない。
上段はある運動記憶が試行錯誤の末、無駄な経路や回り道が削られ、ニューラルネットワークが短絡化し、強化されることで運動記憶が完成していく過程のイメージである。
一方、右下は変なクセが形成されてしまい、そのクセの経路をどうしても通過しなければならないニューラルネットワークのイメージ。
最初にスキーを教わったのは大学生の時である。自称上級者たちにいきなりてっぺん付近までリフトで連れて行かれ、しばらく「ボーゲン」を習って、あとはゆっくり降りてこいという、かなり荒い教えだった。ボーゲンは初心者にはありがたい技術で、スピードを抑えながら斜面を降りるには安全で合理的ではある。スピードを落としたければ内股に力を入れて、お尻を下ろせばなんとかなる? しかし、私は次のステップ「パラレルターン」への移行に大きくつまずいた。 ボーゲンではスキー板を開いて内股に力をかける動きが基本となるが、パラレルターンではスキー板を揃えて斜面に沿って滑る感覚が求められる。これまでの「板を開いて止める」動きが邪魔になり、思い切って体重を乗せられない。要するに、ボーゲンの「癖」が体に染みついてしまったのだ。おそらく、そのあとにパラレルターンを死ぬほど試行錯誤すれば、あるいはさらに上級のコーチからクセを忘れられるようなインストラクションを受け垂れたら身についたかもしれないが、そこまでやる気はなかったので、そのままになっている。
これは、手術のトレーニングにも通じる話ではないか。例えば、自己流の鉗子の把持の仕方や剥離操作を最初に覚えてしまうと、あとから正しい鉗子操作を学ぼうとしても、無意識に「昔のクセ」が出てしまう。あるいは腹腔鏡の手術では対象物に正面に対峙するべきなのに、斜めに対峙するクセのある術者がいる。最初のうちは器用にこなしているように見えても、それが本来の動きと違えば、ある地点で確実に壁にぶつかる。不自然なクセを正すには、ゼロから再学習が必要になるが、それはとても大変で、時間もかかるであろう。スキーと同じで、「変なクセ」は次のレベルに行くときに必ずブレーキになるからだ。
クセとスタイルはどこが違うのだろうか。一般的には、クセは上達を妨げる悪いモノ、スタイルはある程度意図的に形成された再現性のあるモノで、前者はネガティブに、後者はポジティブに捉えられるような気がする。今までの脳科学の復習から考えると、クセは誤って固定化したニューラルネットワークで、主として限定的な技能に限って現れ、その技能の上達の妨げになるものということになるか? 一方、スタイルは「大脳は感覚の変換装置」と考えると、試行錯誤によって、ある程度自分の嗜好も交えて、知覚の仕方や運動(アウトプット)を戦略的に個性化するということになるだろうか?
境界は曖昧である。前述のボーゲンのクセを残したまま、もしオリンピックに出れるような選手になったら(ならない?)、誰もがそういうスタイルだと思うであろう。サルバドール・ダリのような、画風も人生自体もとても個性的なスタイルを貫かれると、スタイルというよりは、とても強いクセのある画家というのではないか? ただし、うまくても「クセの強い手術だ」と言われるよりは、平凡でも「いつも一貫したスタイルの手術をする」と言われるほうが外科医は嬉しいかもしれない。
(本連載は医学書院のWebサイト『Medical Mashup』より許諾を得て転載しています)
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