2025/05/12
さて、前回(第28回) パターン認識の話をしたが、われわれの知覚は感覚神経からの電気信号の強弱やパターンの差異によって現実世界の差異を認識しているらしく、あながち単なるアナロジーと言えないかもしれない。
一般に、大脳皮質では視覚野や体性感覚野、運動野、言語野など機能分担しており、領域もある程度位置が局在していて、それぞれ異なったやり方で感覚信号を受け取ったり、運動信号を発したりしているように想像しがちである。ところが、大脳皮質の構造は基本的にどの部位も同様な6層構造になっており、このことから、異なる感覚信号も、運動信号も、言語理解も、全て共通のアルゴリズムで処理されているのではないかという仮説もある。異なるのは、それぞれの感覚器からの神経線維の束が異なる領域に接続するということだ。
どの領域にも信号は電気の流れとしてやってくるが、そのパターンや強度、頻度が異なる。同じ視覚野でも犬を見たときと、ゴッホの絵画を見たときでは、電気信号のパターンや強さが異なるということらしい。異なるモールス信号で、異なる知覚が生まれるのである。そして、一度ゴッホのひまわりを見たことがあれば、次に見たときもゴッホのひまわりであるとすぐわかる。信号のパターンが同じだからだ。これは聴覚野や体性感覚野、運動野でも同じであろう。感覚神経からの信号パターンや強度が同じであれば、同じモノの記憶が想起されるのである。
このように「感覚と記憶の境界はあいまい」である。感覚が記憶を想起させることを知覚と呼ぶのかもしれない。すなわち、「感覚+記憶=知覚」ということになる。そしてこの知覚や、それによって生み出されるアウトプットも、第1回で述べたように個人差や経験、癖のようなものもあり、画家によって画風が大きく異なるのはそのためであろう。ゴッホはひまわりを見て個性的に知覚する。そしてとても癖のあるウネウネした強烈な画風を生み出すのである。
外科医はロボット支援手術の時代になって、開放手術時代と異なり、手で触れて知覚するという触覚がなくなった分、手術において視覚に大きく頼るようになった。そして高度な視覚情報を得ることにより、新たな視覚の記憶を再構築して、手で触れて確かめるのではなく、視覚+記憶による推測・予測という方向が主流になったのである。広い意味では、外科医の知覚が進化したと言ってもよい。 なぜなら、熟練したロボット外科医ほど、あるいは新たに多くの視覚情報を記憶した外科医ほど、触れなくても組織の質感を感じとれるようになるからだ。ロボット支援手術において「感覚と記憶の境界は曖昧」であることで、むしろ新しい知覚が生まれたと言えるであろう。そして、その境界が曖昧であるがゆえに、より高度な知覚が生まれる可能性がある。
ただし、同じロボット支援手術を行っていても、モニターやビデオでハサミや鉗子の動きを見れば、「あいつが手術しているな」と身内であれば簡単にわかってしまうのである。そこにリズムや癖、決断や判断の違いが見て取れるからだ。
(本連載は医学書院のWebサイト『Medical Mashup』より許諾を得て転載しています)
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